嵐の前の静けさ、とでも言うのだろうか。
普段であれば鳥や動物達の鳴き声の響くこの山奥も今日は恐ろしく無音だ。
もうすぐこの山は人間どもの戦の場になるらしい。その噂を嗅ぎつけた動物や妖怪達は一斉に移住を始めた。どうやらこの様子だと残るは私だけになってしまったようだ。
“いつまで呆けておるのだ”
乾いた葉の擦れる音と風に混ざって母上の声が聞こえる。その方を向けば一匹の狐。真っ直ぐ私を見つめ急かしてくる。もうそこまで人の手が回ってきているようだった。このままでは人に見つかり私たちは即刻殺されてしまうだろう。
山から見下ろす先には一つの村がある。夜になった今は家屋から漏れる暖かな光に包まれていた。人に化けてはあの村へ行き悪戯をしたり食べ物を分けてもらったりとお世話になった村だ。
そしてあそこには特別な思いを寄せているお方が居る。
この想いをなんと呼んだらよいのか、母上に尋ねても解らぬと言われてしまったこの、胸の辺りが締め付けられるようなそれでいて心地よい暖かさをくれるこの想い。
「…母上、」
“…早くしろ、時は迫っている”
「…有難う御座います」
私は山の地を一蹴りし、その村へ向かって駆け出した。
* * * *
昼間とは違い、人が全く歩いていない村に来るのは初めてだった。薄暗く、静けさに包まれながらも、家から聞こえてくる子供の笑い声や叱る声などが村のあちこちから聞こえてきた。
屋根の上を音もなく駆け、目的の家へ向かう。あの方のお姿を見るべく通い詰めたのだ、道など暗くても普段と雰囲気が違っていようとも間違えることはない、何より、あの方には特別な気を感じる。その気が私に居場所を教えてくれるのだ、この目で見える範囲ならば何処に居たって見つけられる。
「…ここだ」
村の奥にある一軒のお茶屋。
店はとっくに閉まっていて、奥から他の家と同じように光がうっすら漏れていた。最後に、お姿が見れたらと思ったが、今は狐の耳も尻尾も露わになっているままだ、こんな姿を見られたら驚かせてしまう。そんな事だけは絶対にしてはいけないと思った。
屋根から降り、店の前で静かに頭を下げる。
「貴方様に出逢えて私はとても幸せでした」
小さく呟き、その場を後にしようと地面を蹴る体制を取ったその瞬間、がらりと戸の開く音がした。驚き振り返るのとほぼ同時、私の腕が何者かに力強く掴まれた。
「待って、!」
「っあ、貴方様は…」
腕を掴んでいたのはお慕いしているあの方だった。
思考が追いつかない、しまった、私は今化けていないんだった、どうしたらいい、不審な者だと捕まえに来たのだろうか。
「君…いつもこの店に来てくれていたね」
「ご、御免なさいお許しください…もう、もう貴方様には一歩も、近付く事はありません、本当に」
「話を聞いてくれ、責めているわけじゃない」
「わ、私は化け物なのです、本来はこの姿なのです、で、でも貴方様を食らおうなんて思った事はないです、信じてください」
動揺しうまくしゃべれない、必死にあの方の手を振りほどこうと身をよじる。目も見られなくて顔を伏せ誤解されぬように弁解を続けていると、はぁ、とため息が聞こえた。恐る恐る顔を上げれば、予想に反し、とても穏やかな表情がそこにはあった。
「話を、聞いてくれないか、狐さん」
「あっ…あの…怖がらないのですか、私は化け物ですよ」
「そんなの、君がこの村に来た時から知っていたよ」
話によればこの方はそういった類の物がみえる人間のようで、いくら化けようと私の正体が化け狐だという事はとっくにばれていたらしい。驚きで何も言えずにいると彼…夏様(というお名前だそう)はくすくすと笑い始めた。笑った顔もやっぱり美しい、自分の情けない姿を笑われているにも関わらず私は夏様の笑顔にすっかり見惚れていた。
私は、住んでいた山を離れること、もうここには来れないことを伝えた。すると夏様はすっかり先ほどまでの笑顔をなくしてしまわれた。未だに私の服の袖を掴んだまま俯いてしまった。
「夏様、」
「…僕はね、君を一目見たあの日からずっと、君の事が気になって夜も眠れない日々が続いたんだ」
「私の事が、気になって…?」
「でも君は狐さんだし、同じ男だ、この想いは許されることはないってずっとそう思っていた」
夏様の口から紡がれる言葉にまた胸の奥の方が今までよりも強く締め付けられる、これは一体なんなのだろう。
服を掴んでいる彼の手をそっと掴み握りしめる。私とは違ってとても暖かい、これが人のぬくもりというものだろうか。
「私も、貴方様を一目見た時から今日この日この時も頭の中は貴方様の事で溢れています、貴方様を思うと胸の奥の方が強く締め付けられて苦しいのです、これは、病気なのでしょうか」
そう伝えると彼はゆっくり顔を上げた。その顔にはまたあの笑顔を浮かべていて、私は少しだけ安心した。
「…君、名前は?」
「え、あっと…名前は、ないのです。狐ですから」
「そうか、…じゃあ僕が君に名前をあげる」
「…本当ですか…!」
そういうと私の掌に指を這わせて見せた。これは文字だろうか、二つ文字を書くと「これが君の名前だ」と笑った。
「どういう、意味なのですか…?」
「意味は…そうだな、また来世、巡り合えたその時に、今君を苦しめている“思い”の理由が解ったらその時に僕に教えてくれないか」
「来世で、」
「そうしたら僕も、君にあげた名前の意味を教えてあげるよ」
そう言った時の夏様の表情は私が今まで見た中で一番綺麗なものだった。
* * * *
どれだけ長い年月を生きたのだろう。
もう体の何処も動かす気力がない。
あの日から一日たりとも忘れたことはなかった。本当だ。
幼かったあの日に比べ沢山の知識も得た。
胸の苦しみの理由を知った時にはもうすでにあの方の気はこの世にはなかった。
“また来世、巡り合えたその時に”
あの方はその、来世とやらに先にいってしまわれたんだろうか、
ならば早く、この思いを伝えに行かねばならない。
私に付けてくださったこの名前も持って、
今、あなたのもとへまいります。